実は、、
差し上げたい宝物、もう一つあるんです。
それは、「心に作る勾玉」
悲しみ、怒り、憎しみ、不安、心配、嫉妬、恥、焦り、やるせなさ、自己嫌悪、無気力・・・
人生、生きていたら、いろいろありますよね。
でも、そのいろんな悩みが生じるのは、バランスがとれていないから。
もっと言えば、
部分しか見えておらず、 陰と陽のバランスが崩れてしまっているから。
ついつい私たちは、例えば悲しみが生じたとき、
それは悲しみ以外の何ものでもないと決めつけ、その悲しみにどっぷりつかり、悲しみと同化(一体化)し、それが自分だと思い込んでしまう。或いは、悲しみを見ぬふりしよう、忘れよう消し去ろうともがき、そのことにばかりに囚われ執着してしまう(これも同化と同じこと)。
これって、部分しか見えてないことですよね。
また、
この世界は陰と陽からなる、という話は聞いたことがあると思いますが、
陰と陽というのは、陰が悪いもので陽が良いもの、ということではなく、あくまでも、お互いに反する性質であり(相反的)、お互いに必要とし補い合うもの(相補的)なんです。
そしてこの陰と陽は必ずセットになっており(対になっている)、陰だけ、或いは陽だけ(片側だけ)では存在しない。
こんなふうに、陰と陽はセットで存在しているのに、私たちはその片側しか見えないんですね。そう、部分しか見えてないんです。
なので、さっき言ったように、その見えている部分に自分が同化してしまう。
陰しか見えてないときは陰と同化してしまい、
陽しか見えてないときは陽と同化してしまい、全体が見えなくなる。
或いは、良い・悪いを勝手に判断し、
陽を良いものと決めつけて、都合よくその陽だけを取り出そうとする、
陰を悪いものと決めつけて、都合よくその陰だけを避けようとする(無視したり、臭いものに蓋をする)。
これって、陰と陽のバランスが崩れてしまっているということですよね。
だったら、陰陽のバランスをとればいい。
・・・恥ずかしながら、、
偉そうに言ってますけど、実は私も、昔は、バランスとか調和とか、、一見聞こえが良い言葉だけど、それがどうした、
世の中、そんな綺麗事じゃない、って思ってました。
でも今は、陰陽のバランスをとることの、本当の凄さが、少しずつだけど分かってきました。
そして、あるとき、そのバランスをとる方法を、見つけたんです。
それによって、私のものの見方も変わりましたし、
今では、生きていく上での強力な武器、心の支えとなっています。
その方法とは、
「出来事に、光を当てる」
光を当てるとは、出来事の背後に意識を向けること。
声なき声に耳を傾け、その背後からのメッセージを聞いて、そこに潜んでいる意味に気付くこと。
これは、見えている現象の背後を意識の光で照らし、そこに隠れているものを浮かび上がらせる(照らし出す)ということです。
つまり、
陰としてしか捉えていなかったことに、光を当ててそこから陽を見い出す。
陽としてしか捉えていなかったことに、光を当ててそこから陰を見い出す。
一方の側(表)だけの意味しか捉えていなかったことから、もう一方の側(裏)の意味を見い出して、両側面で捉えること。
あなたが見ている現象の背後には、相反する意味が隠されていますので。
この出来事はなぜ起こったんだろう?
この体験は自分にとってどんな意味があるのだろう?
この出来事は、私に何を訴えかけているのかな、どんなメッセージを伝えたいのかな。
出来事・現象のすべては、あなたに光を当ててもらいたがっています。
あなたにその意味を見いだしてもらうのを、ずっと待っているんです。
悲しいこと
腹が立つこと
不安なこと
恋愛のこと → 具体的に例えば
仕事のこと
病気のこと → 具体的に例えば
事故のこと
家族のこと
夫婦関係のこと
人間関係のこと
…
全ての出来事
全ての現象
ただし、光を当てるときには、そっと優しく当てて下さいね。
強引に聞き出そうとしちゃだめですよ。
もちろん、偏見や固定観念をなくして聴かなくちゃだめです。
出来事に優しく寄り添い、自然に湧いてくるかすかな感覚に、五感・六感を研ぎ澄ませることが大事。
なので、心を静めて、自分と向き合うことが必要となってきます。
(そういう意味でも、神社って、心静かに自分と向きあえる場所ですよね)
そのとき、出来事を擬人化したり、或いは自分の中にもう一人の自分がいると想定し、その人に話かけて(声をかけて)みてもいいかもしれません。
聞こえてくる声は、聞き取りにくいほど小さな ささやき声かもしれないですけど、そんなときは、ボリュームのつまみを回してその声を大きくして下さいね。 内部感覚を研ぎ澄まし、感知したその知覚(視覚、聴覚、体感覚)を“増幅”していくって感じでしょうか。
そしてその上で、メッセージや意味を読み取ってあげる。
一見、何言っているか訳が分からないことを言ってきたり、うるさくしゃべっている声が聞こえてくることがあるかもしれませんが、これも、普段、意識の光を当ててもらってないから(話を聞いてもらってないから)であって、それらが訴えかけてきている本当のメッセージ・意味は背後に隠されているので、それを読み取ってあげる必要があります。
そもそも何にも聞こえてこないよ、何も感じないよっ、て場合もあるでしょうけれど、一回だけで諦めず、私には無理だわって決めつけずに、聞こえてくるまでじっと待ってあげて下さいね。これまで長い間、聞いてあげてなかったんですから。
言いたいときに言ってね、いつでも待ってるから、
その日がだめなら、また別の日でもいいよってくらいの、大らかな気持ちで。
そして、できれば、
これまで無視しててごめんね、気づいてあげられなくてごめんね。
ずっとつらくて、寂しかったよね。一人で耐えて、がんばってくれていたんだね。
でももう一人じゃない、大丈夫だよ、いつでも側にいるから。
っていう感じで、優しく、寄り添う気持ちで、話かけてみて下さい。
或いは、その人に話かけるというより、
話しかけているその人自身に自分がなってみる、
つまり出来事・対象そのものになってみるといいかもしれません。
自分がそのものになってみたら、そのものの気持ちがより分かったり、
メッセージがダイレクトに(直接)伝わってくるかもしれませんよ。
ただ、、
光を当てるってことは、勇気がいるし、時につらいことだと思います。
これまで見て見ぬふりして避けてきたこと、蓋をして閉じ込めてきたものと、そんな自分と、ちゃんと向き合わなければいけないことでもありますからね。
でも一方で、
いろんな(悩みの)出来事が起こるのは、こうとも言えます。
それは、「自分自分を知るため」
例えば、「自分は人から褒められるような優しい人間だ」というアイデンティティー(自分がそうだと思っているもの、自分を同一化しているもの)をもっている人は、自分は人から悪く言われるような利己的で冷たい人間じゃない、という超えられない一線をもっている。なので、いつでもその人は 他人を思いやり、人に対して優しくあろうとする。
しかしやがて、優しいだけではどうしようもなくなってきて、自分の無意識の中で、もう優しい人なんて嫌だ、という声が出てきます。
でも、「自分は思いやりがって優しい」という意識と、「優しい人なんてもう嫌だ、人から何と言われようが自分の好き勝手に生きたい」という無意識との間には、見えない壁があり、互いに切り離されていて、自分では気づくことができない。
だから、この「優しい人なんて嫌だ、他人に冷たくても自分が思うように生きたい」という心の悲鳴を気付かせようとするための出来事(例えば、その人に優しくしてるのに誤解されてその人から誹謗中傷を受けてしまうような出来事)が、起こるんです。
でもそれを無視すればするほど、手を替え品を替え、様々な嫌な出来事となって、しかもそれが更に強く起こるようになってくる。
気付いてくれ、気付いてくれ、どうして気付いてくれないんだ!って。
・・
そう考えると、嫌な出来事というのは、
自分の中にある認めたくないもの、自分に許しを与えてないもの、なのかもしれません。
ある人は言いました。
「自分が自分の性質と別々のときにのみ葛藤が存在する」
このことは逆に、葛藤を無くすには、自分が自分の性質と別々でなければよい、
すなわち、今の自分こそが自分であるという執着を解き放ち、もう一人の自分と共感してその自分を受け入れ(受容し)、一つの自分になればよい、ということ。
みんながよいと思う状態の自分にもっていこうとするのではなく(何かと・誰かと比較するのではなく)、自分自身をちゃんと知り、その自分も含めた自分こそが自分なんだ、ということ(自分が自分であること)。
これは、
自分の目玉で自分の目玉を見ることができないように、自分を知るためには、自分を反対に映し出す鏡、自分はこうだと思い込んでいるその反対の自分の性質をもつ出来事が起こるってことなんでしょうね、きっと。
そういう意味では、あらゆる葛藤(対立)には重要な意味があって、人生というのは、いろんな出来事を通して、自分自身に気付いていく旅、本当の自分に戻っていく道なんじゃないでしょうか。
(神道で言う惟神[かんながら]、の道でしょうか)
このように、出来事に光を当てると、
反対の性質が浮かび上がってきて、
すなわち、
これまで陰(陽)だけしか見えていなかったところに陽(陰)が現れてくる。
すると、
陰・陽の両方が揃い、バランスがとれてくる。
別の言い方をしますと、
ある出来事(問題)が起こると、自分とその問題とを一体化させて、それが自分(自己)だと思い込んでしまう。(心理学的には、問題を「内在化」している状態)
そこに光を当てることで、そこから問題を分離させる、
つまり、自分と問題とが一体化した状態から、自分と問題とが切り離された状態となる。(問題の「外在化」)
自分が問題と一体化しながら、その問題を解決することはできない。問題を問題視して解決しようとするから、ますますその問題から離れられず深みにはまっていく。
この悪循環を断ち切るのが、光を当てるということ。
問題を問題として扱おうと執着している自分自身を解放する、しがみ付いているものから手を放す。
問題の原因を特定してそれを解決しようとする姿勢を捨て去ることで、問題が問題でなくなってくる。すなわち、その問題の裏に隠されていた恵み(問題が解決するだけでなく、今より更にもっと幸せになるための幸運の鍵)が顕れてくる。(なぜかそうなるんです、これが不思議なとこなんですよね…)
我よ我よ、自分がなんとかしよう自分が思うように上手く解決しよう、とすればするほど、陰と陽が偏ってきてしまう、アンバランスになってしまう。
・・・
疲れました?
集中のバランス、崩れてきてます?
しばし、ぼ~っと休憩してくださいね。
(集中するには、その反対の緩みが必要)
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先ほども、
陰・陽の両方が揃い、バランスがとれてくる、と言いましたけど、
バランスがとれる、ってどういうことでしょうか。
それは、陰陽はセットということなので両方の性質は必ず持っているとして、そのマイナス(-)とプラス(+)の割合が、
-90(陰)+10(陽)というように陰が多く陰に偏っている状態、或いは
-10(陰)+90(陽)というように陽が多く陽に偏っている状態から、
-50(陰)+50(陽)の、陰・陽が半々(厳密に半々でなくてもよい)の状態になること。
(このとき、イメージ的には、、これまで+と-に偏りがあったため、暗い感じだった電球が、+と-のバランスがとれたことで、ぐわっと明るくなって光り輝き始めたって感じです)
人の例えで言えば、
悲しみにどっぷりつかってしまった状態でもだめ、喜びが過ぎていわゆるハイな状態になってしまってもだめ、ってことです。
悲しみを受け入れ、それを乗り越え、そして、そういう悲しみを知っているからこそ、本当の喜び、生きること・生かされていることへの歓喜と感謝がある、という状態ですね。
(そういう人は、魂のレベルが高いといいますか、包容力があって人間的な深み・魅力がある人)
このように陰と陽が揃ってバランスがとれたとき、陰と陽は元の一つに戻ろうとします。
つまり、陰と陽の統合(結び;むすひ)が起こり、一つになります。
先ほどのプラスとマイナスの話をすると、
陰と陽に分かれ出でていたものが、元の一つへと統合されて戻るとき、
-50(陰)と+50(陽)が足し合わされて、0(ゼロ)になるということです。
ただし、このとき、単にゼロになるんじゃなくて、エネルギーを発するんです。
しかも、凄まじいエネルギーとして。
(ちょっと科学的な言い方をしますと↓)
元々、光輝く高いエネルギー状態だった統合状態(神様の世界=常世:とこよ)から、そのエネルギーを内包した陰と陽とに分かれ出でて(元の一つから分離して、エネルギーレベルが低い状態となり)、それがこの世界(現世:うつしよ)を形づくっている。
つまり、この世界における現象・出来事を生じさせるためには、すなわち、形のないエネルギーの状態ではなく、形ある物質や人間として存在するためには、陰と陽という相反するもの・相補的なものの組み合わせが必要となる。
(物理学においても、この世界は、粒子―反粒子、物質―反物質で構成されている)
なので逆に、分かれていた陰と陽とが一つになって元に戻るとき(ゼロになるとき)、これまで陰と陽に内包されていた(閉じ込められていた)エネルギーがそのまま解放される、つまり、高いエネルギーが発せられるということ。
もともと、出来事や現象としてこの世界(物質)を形づくっていたエネルギーですから、それは、凄まじいエネルギーです。
(例えば核物質たった1g(1円玉1枚の量)で、50mプール108杯分の水を100℃に沸騰させることが可能なくらいのエネルギーが物質にはある)
そりゃ、陰と陽が統合するとき、こんな凄いエネルギーが生じるんだから、
そのとき、奇跡だって簡単に起こっちゃいますよね。
ところで、陰陽を統合するってことは、「全体と一つになる」ってことなんです。
全体と一つになるってことは、陰とか、陽とか、そういう区別(相反的・相補的な違い)もなくなって、それらが合わさりながら、元々の一つ(全体)に戻っていくということ。
これは問題だなぁと思うような出来事(これを陰とする)が起こったとき、その背後に意識の光を当てると、その出来事が訴えつづけてきたメッセージや意味が照らし出され(陽)、陰と陽の両方が揃うことでこれらの統合が生じ、陰・陽がなくなると、問題だと思っていたその出来事が、いつの間にかすーっと消えてなくなっちゃうんですよね。或いは、予想だにしなかった素晴らしいことに転じて、解決してしまう。
つまり、この出来事は、メッセージや意味を伝える(自分自身を知ってもらう)という役目をもって生じた出来事であったが、光を当ててもらい、そのメッセージや意味に気付いてもらえたので、無事、その役目を終えた(役割を果たした)、ということです。
出来事の一面(片側)だけしか見えず、それに翻弄されてしまうのは、人の常であり人の弱さ。
でも、光を当て、陰陽に気づき、陰と陽の両方を見るようになったとき、人は、神の世界の見地から出来事を見ていることと同じになり、(人間界の制約・因果関係なんて全く関係のない)神の世界における法則が適用され、陰とか陽の区別がなくなる(神の世界を満たしている光に溶け込む、包み込まれる)ということなんでしょうね。
ある意味、人間的な「部分」という偏狭な世界から、「全体性」という神の世界に入るってことでしょうか。
もちろん、神の世界では、人間が絶対に無理だと思うような奇蹟だって、ごく普通~に起こるでしょうね。
全体というのは、(先ほどの凄いエネルギーも含め)「全てがある」ってことですから。
「部分」から「全体性」というのは、見方を変えれば、こうとも言えます。
すなわち、部分的に凝り固まっていたもの・流れが淀んで滞っていたものが、再び、その大きな流れを取り戻す、良き方向へ動き始める(=胎動がはじまる←勾玉ですので)。
(実は、神社での「祓い清め」の本義は、堰き止められ滞ってしまっていた気の流れ〔邪気であり心に魔が生じた状態〕を、再び元の清い流れに戻す、ということです)
“我”という人間の狭い了見から目覚めて、大いなる自然=神とつながって一つになれば、世界に満ちている“いのちの流れ”を取り込まれ、氣が復活する。良い氣が流れ始めます。
良い氣が流れ始めるということは、元の良い氣の流れに戻る:元氣になる(病気が治り元氣回復する)ということですし、邪気・魔が祓われる、つまり、問題や悩みは解消するということです。
これらはまさに、
「調和(バランス)と全体性」の摂理
(摂理-せつり:自然界を支配している法則)
ですよね。
ほんと、この世界は不思議です。
ちなみに、この「調和(バランス)と全体性」の摂理にも関わることですが、
出来事に光を当てて、よりしっかりと統合を起こすためのポイントが、3つほどありますので、
最後にその話を。
◆「光を当てる前に、まずは、今起こっている出来事をしっかり味わう」
その出来事から感じる喜怒哀楽の感情をしっかり味わうってことです。喜怒哀楽のどの感情も等しく大事で、神様はそれらを恵みとして与えてくれているのに、人間の都合で勝手に判断し、嫌な感情には目を背ける。これって、全体から離れていく部分的な(バランスを崩す)行為ですよね。
その出来事「陰」の背後に光を当てて「陽」を見い出したとしても、そもそも、その出来事「陰」をしっかり味合わっていなかったら(受け取っていなければ)、それはそれで、やっぱり片側「陽」に偏っていることになり、統合が起こりにくくなってしまう。なので、陰陽の両面をしっかり捉え陰陽のバランスをもたらして統合を起こすためには、まずは起こった出来事をしっかり受け止め、喜怒哀楽を味わうことが必要。この過程をすっぽかして、背後に光を当てとけばいいだろう、ではだめですよ。
◆「光を当てるときは、感謝の気持ちで」
光を当てて、聞こえてくるそのメッセージがたとえどんなものであったとしても、それに対して、ありがたいなぁ、ていう感謝の気持ちをもって欲しいなと思います。
これに関しては、作為的であってはいけない、といいますか、よりよい統合を得ることを目的とした感謝ってなると、感謝が目的達成のための一手段となってしまうので、それは感謝じゃなくなっちゃいます。感謝しようとすればするほど感謝じゃなくなってくる、という矛盾した話ですけど、、まあ、きっと、光を当てようと思うようになった時点で既に、ありがたいなぁという気持ちが自然とわきあがっくる状態になってると思います。 ― あなたの心の、あるがままで、大丈夫。
ちなみに、この感謝の気持ちは、陰陽統合における一種の触媒というか点火剤というか、陰陽の上から感謝を振りかけると、統合の化学反応が起こりやすくなるんです。
もっと言えば、“誰かのために”という慈愛のような気持ち(神社では、奉仕の奉のこと)が最も強い触媒・点火剤なんですよね。そのときは、自分のことよりも誰かのため、つまり、無私・無我になってますから、そこに私がいない、我がないということは、人智を超えた神の世界に入っているということなので、神の力(調和と全体性の摂理)がそのまま与えらえるってことでしょうね。
◆「光を当てた後は、おまかせする」
光を当てた後は、きっと大いなる自然、神様が良きに導いて下さると、勇気をもって身をゆだねる。
身をゆだねる、てことは、神様を信じ、自然の流れに従い、結果なんて気にせず、“おまかせする”ってこと。
更に、“おまかせする”ことを別の言い方すれば、“あきらめる”。 人として上手くやろうとするのを諦める。
人として上手くやろうとすればするほど、我が突出してきて、これもまた部分的になり、神様の全体性から遠のいていってしまいますもんね。
我よ、我よという気持ちを取り除いていく、いや、取り除くというより、ごく自然に、すーーっと薄まって消えていくような感覚。
そこには“我”がない(無我)、そこには“私”がいない(無私)。
我がなく私はいない世界なんだから、そこは自然そのもの=神様の世界となり、そのまま、自然・神様のエネルギーを受け取るようになる。
エネルギーが流れ込み、滞っていたものが流れ始め、バランスが戻ってくる、ということなんでしょう。
これが暗に示しているのは、
起こる問題(出来事・現象)というのは、人間が上から目線で一方的にその問題を解決し取り除こうとするものではなく、自分と問題とは「対等」であるということ。
自分も大切にしつつ、その問題にも敬意を払うということ。
それは、自然や神様を畏れ敬い(傲慢さを戒め、謙虚であること)、見えないものを大切にし、人として生きる歓び、真心からの感謝を呼び起こすことにつながります。
いずれにしても、出来事に光を当てた後の流れというのは、大いなる自然の摂理の流れであるし、神様の法則の世界、調和の世界への流れであるので、自ずと、良き方向、正しき方向へと導かれていきます。
3つのポイント、いいでしょうか。
ほんとに、ね、
生きていると、いろいろありますけど、
でも、
悲しい出来事も、腹が立つ出来事も、つらい出来事も、 あっ やっちゃったぁーっていう失敗も、
みんな、大きな恵みに変わるための、宝物。
この世界には、いたるところに、幸せとなるメッセージが隠れているので、
それを一つ一つ見い出していきましょう。
光を当てて、心に勾玉を作り出して。
これで終りだと思うと、
なんか、少し寂しくなってきました。
その寂しさに光を当ててみると、、
「人も、自然も、私も(←これきっと神様)、みんな、つなっがっている。
だから、寂しさを、心と心をつないでいく、その力とせよ」
っていうメッセージが。。
また、お会いしましょう!
そのときは、
あなたが乗り越えて恵みに変えた、宝物、魔除け勾玉の話をしましょうね。
では。